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1 一つの熱と旅路の風と 2 そろそろ今日の当番のカヨコがシャーレにつくであろう時間に、モモトークでカヨコから連絡が来た。 3 「先生、ごめん、ちょっと遅れる」らしい。 4 私は「大丈夫?今どこにいるの?」と聞くと、カヨコからD.U.地区の場所が送られてきた。 5 シャーレからはそう遠くないため、行ってみることにした。 6 上着の襟を内側に寄せて整え、シッテムの箱を持ってシャーレを後にした。 7 送られてきた場所につくと、カヨコが歩道のヘリの少し高くなった縁石に座り込んでいた。 8 ゆっくりとカヨコに近づくと、カヨコの前に猫が横たわっているのが見えた。 9 更に二、三歩近づいてよく見ると、白茶色と白の斑の柄の猫のお腹の毛が赤く濡れていた。 10 その下のアスファルトも赤黒く濡れているのが解った。 11 あと一歩行けばカヨコに触れられそうなところで私は立ち止まり、声をかけた。 12 「カヨコ、大丈夫?」カヨコは顔を私に向け、目を開いて私を見た。 13 「先生……その、私は大丈夫なんだけど、この子が……」 14 カヨコはそう言って、猫の方に目線を戻した。 15 猫は目を瞑って動かない。 16 私はD.U.の道路管理をしている部署に電話をかけた。 17 すると、保健所に繋がれ、一時間ほどで到着すると言われた。 18 私はカヨコにその旨を伝えると「ちょっとまっててね」と言い、その場を離れた。 19 私は近くの自販機であたたかい缶ココアを二つ買った。 20 商品が落ちてくる時に鳴るガタンッという煩い音が、耳の外側で響いた。 21 先程よりも静かな足取りでカヨコのもとに戻ると、カヨコは近くの花壇の縁に腰掛けていた。 22 私はカヨコに缶ココアを一つ差し出して「カヨコ、飲む?」と訊いた。 23 カヨコは「うん。ありがと」と言って左手でそれを受け取った。 24 私はカヨコの隣に腰掛けて、もう一つの缶ココアを開けた。 25 口の中に甘くて温かい味が広がった。 26 コーヒーであれば、残業のときに目覚ましによく飲むのだが、ココアを飲む機会はあまりなかった。 27 チョコよりも甘くない、濃くもない、目が覚めるわけでもない久々のココアを、また一口啜った。 28 カヨコが、缶に添えた右手の指先を見ながら呟いた。 29 「あの子、私が見つけたときは、未だ生きてたんだ」 30 「首を動かしながら、声にならない声で泣いてた」 31 カヨコの言葉が止まり、車が一台、私達の前を通り過ぎて、向こうの角を曲がって見えなくなった。 32 「そうだったんだね」とだけ言葉を返して、私も黙った。 33 中高年くらいの夫婦が通りかかった。 34 夫の方は苦虫を噛み潰したような顔になりながら、心做しか早足になり、 35 妻の方は目に入らぬように顔の横に手をやり、夫についていくように二歩ほど小走りした。 36 親子連れも通りかかった。 37 子供の一人と母親が手を繋いで前を、もう一人の子供と父親が後ろを歩いていた。 38 母親はたち度もあると、父親の方に向き、何か二言三言を言うと、それぞれ子供を抱きかかえて、子供に見せないように歩いていった。 39 ふと、カヨコを見ると、おそらく残り少ない缶ココアを握り、羽根を自らの身体に巻くようにしていた。 40 カヨコが俯いたまま、再び呟き始めた。 41 「先生、別に来なくても良かったのに。 42 仕事、あるんでしょ?」私は応える。 43 「来たくて来たんだよ。カヨコの事が気になってさ。それに、これも大事な仕事だよ」 44 「ふふっ」 45 カヨコは喉を鳴らすように笑った。 46 「先生らしいね」 47 「そうかな。あはは……」 48 頬をかきながら答えた。 49 そうこうしていると、向こうの交差点を光沢のない白色の軽トラックが曲がってきた。 50 黄色がかったフロントライトが太陽の下でも少し眩しい。 51 軽トラックは私達の前まで来ると、ブレーキをかけて減速し、縁石の切れ目に乗り入れた。 52 扉を開けて降りてきた人は、私達に話しかけてきた。 53 「あなたが、連絡をくださった先生ですか?」 54 「はい」 55 「連絡いただき、ありがとうございます」 56 その人とそれだけ話すと、その人は猫の方に歩いていった。 57 しゃがみ込んで猫の身体に手を触れる。 58 それからその人は、軽トラックの荷台の方に行った。 59 カヨコは黙って、風に吹かれてすすきのように揺れる猫の毛並みを眺めていた。 60 保健所の人は、肘のあたりまである青いビニルの手袋をはめて、新聞紙のひかれた段ボール箱を持ってきた。 61 箱を猫のとなりに置くと、なんの躊躇いもなく猫を持ち上げて、箱の中に入れた。 62 はみ出る手足を、身体を丸めることで箱内に収め、軽トラックに乗せた。 63 手袋を外してトラックに乗せると、再び私達の方へ歩いてきた。 64 「収容はおわりました。多分、轢かれたんじゃないかと思うのですがねぇ。有難うございました」 65 「こちらこそ、ありがとうございます」 66 そう返すと、保健所の人は軽トラックに乗り込んで、バックして車道に出て、そのまま走り出した。 67 ふと、隣のカヨコを見ると、右手の親指の腹を眺めていた。 68 「カヨコ、それじゃあ私達も行こうか」 69 「うん」 70 そう言って私達はシャーレに向かった。 71 執務室の机の上には山積みの仕事があり、カヨコはそれを見て拳を握ろうかと力んだ。 72 私はカヨコに向かい合って立ち、両手を広げた。 73 「どうしたの先生…?」 74 「カヨコ、おいで」 75 「え?」 76 「いいから、おいで」 77 「う、うん」 78 そう言って、カヨコは恐る恐る私の胸の中へ収まった。 79 私は手をカヨコの背中にまわし、カヨコもそれに従って、私の背中に手をまわす。 80 握っていた拳を開いて、私の体温がカヨコの手に伝わる。 81 その熱がカヨコの手を再び温めると、カヨコは先生の胸の中で呟き始めた。 82 「私、あの子に何もしてあげられなかった……」 83 「カヨコは優しいね」 84 「え……?」 85 「カヨコはあの子が最後の旅に発つのを助けたんだよ」 86 「なにそれ。スピリチュアル?」 87 「ううん。カヨコはあの子のことを慮ってたんでしょ?だから、優しいなって」 88 「そっか……」 89 カヨコの声が私の胸を揺らしてくぐもっている。 90 「あの子が動かなくなって、あの子の頭を撫でたんだ。そのときは未だ、幽かに暖かくて……」 91 カヨコはそう言うと、腕により力を込めた。 92 私とカヨコの熱は混ざりあって、一つになった。 93 「先生、ありがとう」 94 「ううん。これも私の役目だからね」 95 「ふふっ」 96 「え?なに?」 97 「なんだか先生らしいなって」 98 そうして私達は今日の仕事に取り掛かった。