6.txt (8186B)
1 スズミSS(自殺表現注意) 2 シャーレの執務室には先生の姿はなかった。 3 当番の生徒は仕事が終わったのか見当たらず、電気だけが点けっぱなしだった。 4 私はひとしきり机の上の資料などを眺めた。企画書、予定表、支援申請、来月の会議の資料。 5 なるほど当番の生徒は帰ったのだろう。私は先生の居ないのを良いことに、普段、先生が座っている椅子に座ってみた。 6 生徒用のものと変わらないし、景色もそう大して変わるものではなかったが、青白い光を放つモニターがこちらを向いているというだけが新鮮であった。 7 私は仮眠室に続く扉が半開きになっているのを見つけて、先生の眠る尊顔でも拝もうかと思い立った。 8 仮眠室の中は、恐らく窓からの光があるようで、仮眠をするならカーテンを閉めるものだろうとは思うのだが、先生は灯りがないと眠れない質なのかもしれない。 9 そもそも仮眠なのだから、早く目が覚めるように光を入れているのかもしれない。 10 そんなことをするくらいなら、自宅に帰ってお休みになれば良いのにと思うのだけど、それらもまた、灯りがないと眠れないということに似た、先生の好みの問題であって、私のとやかく言うところではないという自覚が芽生えてくる。 11 静かに仮眠室の扉を開ける。白いベッドシーツはホテルほどとは言わないが、目立った皺も膨らみもなく、とてもきれいだった。電気を点けていたから、先生が居るものだと思っていたが、どうやら違ったらしい。 12 しかし、ベッドの脇になにかある。靴。それから、サイドテーブルに置いてあったライトが転んでいて、それと、 13 「先生?」 14 白くぼやけて見えるのだが、このような服装をしている人を、私は先生しか知らない。 15 銃を床に静かに置いて、先生の顔の方に近づいてみる。顔の前にライトの電源コードがあって、手で避けようと触ったが妙に引っ掛かりがある。 16 先生の首に。ベッドの影になっていてよく見えないが、首筋に痕がある。目尻と鼻下がテラテラと光っていて、少し顔を触るのが躊躇われたが、なんとか頭をどけて首筋を触ると、恐らく脈はあった。 17 わからない、自分の拍動を、先生のだと思っている可能性だって十分にあるのだ。少なくとも、どれだけ、声を発さず、窓を締め切ったとしても、自分の息を飲む音や拍動を静かにすることはできない。 18 とにかく、私はスマホを取り出して、モモトークのピン留めのセリナさんに電話をかける。1コール、2コール、3コール。 19 「もしもしセリナさん、えと、せんせ…いが」 20 「いまどちらですか?」 21 「」 22 「あっ。すぐ向かいます」 23 24 授業終わりにコンビニに寄る。ここ数日は誰とも挨拶をしていない。もしも誰かに私が先生を殺したと思われていたら、否定のしようがない。確かに私の身体は罪悪感によってやつれているのだ。 25 その疑いを晴らすためにも、元気に振る舞っていたほうが良いかと思い、弁当のコーナーの方に行く。色とりどりの食材が多く詰め込まれた。先生を殺した人間に健康など要らない。 26 そうだろう。先生を殺した人が、元気に暮らしているのを見れば、腹が立つのは明らかだろう。それに今の私には食欲がない。精々、生きて償うための食べ物。なんとも可哀想なおにぎりだ。冷たい。あの時の先生の首元よりも。 27 口に入れれば、その冷たさはあまり気にならないが、食事によって私の体温が上がっていることに気付くのは俄な苦しみになる。食べた後の独特な、新品の米のようなにおいが、病院のぬるくて清潔くさい空気と混ざって、呼吸が曖昧になる。 28 重くて滑らかな病室の扉を開けると、先生はまだ昨日のようにベッドに転がっていた。その窓際の丸椅子には黒い羽のイチカさんがいた。 29 「イチカさん、こんにちは」 30 「こんにちは」 31 しばらくしたら、イチカさんは羽を私に当てないように小さく畳んで、病室を出て行かれた。イチカさんは私のことを犯人だと思っているのだろうか。私に配慮してくれているという淡い期待の奥に真っ黒な罪が残る。 32 私にはそんな恐ろしいことは到底できはしないというのに。私が先生の首元にランプの電源コードを巻きつけて、両手で引き、だんだんと先生の反応がなくなっていって、終いには先生の息すらも止まるはずだった。 33 私は途中で怖くなって、手を緩めて、気絶した先生のことをセリナさんに通報した。そんな私の狡猾な無計画により先生の息は今も未だ続いている。先生があんな風に、自らの首を絞めるなんてこと! 34 だとしたら、私の首元にこそ電源コードがお似合いだ。残念ながらこの病室にそれは見当たらなくて、あるのは、かろうじて温かい先生の無意な手だけ。 35 先生のこの大きく弱い手が私の首元を覆い、身体の重さのほとんどをかけて私の命を奪ってくれたなら、私に訪れる救いはどれほど大きいものになるだろうか。 36 なんとも不思議なもので、私が先生によって殺されることは大きな救いであるのに、私が先生を手にかけることは大きな苦しみなのだ。 37 その根源には、当人が望んでいるかどうかというものが思い当たることになるのだけれど、先生はどうだろう。 先生は、自ら死を望んでいた。 38 でなければ、あんな風にベッドの陰でランプの電源ケーブルを首に巻きつけて両手で引いたりなどしないかもしれない。 私が奪ったのは、先生の命ではなく、救いだったのかもしれない。 39 私の罪はむしろそちらの方が大きくて、狡猾など取るに足りないほどだ。先生が私のことを殺してくれたなら、どんなに。お願いだから私を殺して。 40 すがるように上を向いて立ち上がる。両手を上に掲げ、悪魔である私には聞こえるはずもない主の声を待つ。額から血が引いていって、こめかみの下が脈打つのを感じる。 41 意識がだんだんと浅くなって、涙と鼻水があふれ出してくる。 汚さはもうなかった。私の身体はあらゆる関節から崩れ落ちて、先生の身体の前にすがった。 42 止まった呼吸に取り残された息を使って言う、救いの呪文を。「殺して」と。先生の掌が私を引きはがすように、私の手をつかんだ。 43 見ると先生はみずみずしい瞳をふるふると揺らしていた。 先生一人だけずるい。私だって、先生ばっかり、先生は良いのに私はダメだなんて。 44 怒鳴りつけようと吸い込んだ息は嗚咽にばかりなって、あふれ出てくる。 45 先生はしきりに「ごめんね」と言う。私がどれだけ手を強く握っても、先生は謝罪だけを繰り返す。 46 力みきった口角に涙が伝い、口の中がしょっぱくなる。病室の扉が開く音がして、誰かが駆け寄ってくる。 47 「先生、やっぱり意識は戻ってたんですね」 48 セリナさんの声だ。 49 「ベッドから出られないように足枷をしていて正解でした」 50 先生の足元に手をやると確かに足枷がしてあった。 51 「ごめんなさい」そう言いながら、ずっと強い嗚咽が上ってくるのが分かった。